履歴書の在り方について、そして僕が「県人会」に行くのをやめた理由

今朝のニュースをザッピングしていたら「履歴書から『性別や写真欄』の削除を」という話が出ていた。中身を読むと、このニュースの元になったイベントを主催する団体の主張は「採用活動の際、性別や外見ではなく、適正や能力を重視してほしい」ということだそうだ。

主張自体は正しい面もあるし、時代の要請という側面もあるんだろうけど、そういうことになってくると履歴書の存在意義そのものが問われてくるだろうと感じてしまった。

言うまでもなく、履歴書に書かれている情報は性別や写真だけではない。氏名や出身地に通じる学歴、これまでの職歴、資格、趣味・特技など、形として見えるパーソナルな情報が詰まっている。それらもそれぞれ顔や写真と同じく何らかの「印象」を持っている。



僕は小さな組織の中で採用面接を行う立場に立ったこともあるけれど、例えば、名前が与える先入観というのは結構大きい。自分と同世代にも通じる古風な名前なのか、それともいわゆるキラキラネームといわれるような奇抜な名前なのか。それだけでも育った環境が透けて見える(あくまでも、気がする)。同じように出身校を見れば育った環境が大体見えてくる。都会で育った人間なのか田舎で育った人間なのか、そうした偏った先入観も人を見るモノサシになりかねない。

無論、僕は人間とは多面性を持った生き物だと思っているので、ある一面だけで先入観を持たず、自分の眼で見たものから相手の人間性を判断しているけど、実際に中小規模の企業の採用面接などでは履歴書や職歴書をなぞるように面談が進められることが多い。なかには、試験を受けているこちらが眠くなるような、通り一遍のことしか聞いてこない、つまらない面接官もいる。また、3回に一度くらいの割合で「これまでのキャリアを簡単に説明して」って最初に聞いてくる人もいて、その説明を省略するために時間使って書類作って提出してるんだけど、ちゃんと読みました?って時間の無駄を感じさせられなくもない。笑

僕なんかは書類上で見ると取り立ててこれといったアピールポイントはない。ただ、我ながら僭越だけど、人の懐にスッと入っていく柔軟性とか、会話を繋ぐコミュニケーション能力とか、どこでも躊躇なく行ける精神的なパスポートとか、書類に見えないアビリティは結構持っていると思う。だから書類をなぞるような面接で時間を潰さずに、ちゃんと本質的な人間性を見てもらうには、下手に先入観を与えるような履歴書自体がいらないんじゃないかと思ってしまう。いや、履歴書は必要でも、面接官がそれを見るのは面談の後からでいい。


たった2回しか行かなかった「県人会」


そんな風に先入観や出身地について考えていたら、そういえば何年か前に同郷の友人から誘われて「県人会」なるものに行ったけど、たった2回だけで行くのをやめたことを思い出した。

何でやめたんだろうと自分の中で振り返ってみると、都市と田舎という同郷内の地域格差がそのまま持ち込まれているような空気が僕にはどうしても合わなかったのだ。東京に暮らしていれば同じ「〇〇県出身者」で括られるのに、県人会に行った途端、その場では一気に「田舎者」となる。出てくる話題も人口分布の大きい地域のネタが中心。よって、気を使わないはずの同郷人の集まりが、知らない地域の話に合わせなければならない気遣いの場になる。

人の流れは自然と中央に向かっていくから、同じ郷土の出身者といっても中央の人間は末端の地域のことなんてほとんど知らない。どうせ知らないなら同郷の人間と話すのも東京の人間と話すのもさして変わらない。そして中央のど真ん中にはだいたい中央地域出身の“ボス”がおり、そのボスには取り巻き子分もいて集団らしいヒエラルキーができあがる。土地柄みの人間関係というのは、極めてそうした縦社会が構成されやすいもの。たった2回しか出なかったけど、これはきっと群れたい人たちが気持ちいい集団なんだと心が引いてしまった。

もちろんこれは極私的な感想なので、県人会のすべてがこういう感じではないと思う。そして同郷人が故郷から離れた土地でつながりを持つことは心のゆとりにもなるし、僕も同じ郷土の人と1体1で話すのは大好きだ。そういう意見もあるよと、個人の見解のひとつとして受け止めてもらえたら幸いだ。

今日は長くなりました。世間は三連休。コロナの状況が厳しいだけに完全に安心して出かけることはできないかもしれませんが、できる範囲の中で楽しい時間をお過ごしください。

それでは。


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