ホロコーストと旅のお話《アウシュビッツ強制収容所で感じたこと》

東京五輪の開幕式担当者の件で、彼が揶揄したという「ホロコースト」というワードが世間を騒がせている。ホロコーストとは第二次世界大戦でナチスドイツがユダヤ人に行った迫害と大量殺戮のことである。



中欧を旅した時には各地で当時のユダヤ人隔離地区だったゲットーも訪れているが、やはりホロコーストの記録として僕の記憶に強く残っているのは23歳の頃に訪れたポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を訪れた時のことである。

僕がここを訪れるには、ちょっとした前日譚があった。

「できるなら若いうちに訪れるべき場所だ」

そこからほぼ5年前、大学で確か「国際関係論」の講義だったと思うのだが、その時の先生が一発目の概論的な講義でアウシュヴィッツ強制収容所について熱弁していた。

当時はまだ高校を出たばかり。その上、商業科上がりなので一般科目に大した教養のなかった僕にとっては「アウシュヴィッツ強制収容所」というものが何なのか、なかなか理解が追いつかなかった。ただ、普通ではない熱を帯びて語る彼の姿に自然と惹き込まれ、とりわけ「できるなら若いうちに訪れるべき場所だ」という言葉はそれからずっと頭の片隅に残った。

また、その後放送された唐沢寿明版のテレビドラマ『白い巨塔』の中で、唐沢演じる財前がアウシュヴィッツで「命の尊厳」について考える場面からは、あの先生の話も相まって僕に強い衝撃を残した。

夜行列車3連発で3カ国を周る強行軍

そして大学を卒業して23歳となり、初めてのデジカメだったNIKONのD50を携えてヨーロッパ周遊独り旅に出た時のこと。ドイツのフランクフルトを起点にドイツ、オランダ、フランス等を周り、約3週間をかけてオーストリアのウイーンに辿り着く旅程だったのだが、少し早めにウイーンに着いてしまった。

ウイーンの名所はだいたい見終えてしまって、まだ3日ある。そしてオーストリアの別の街に足を延ばしてもいいけど、ここまで長距離移動してきたためか、できるだけ時間を有効活用してたくさんの国が見たいという移動熱が止まらない。

そんなわけでトーマスクック(懐かしい)を開いて鉄道路線図を確認していると、夜行を使えば明日にはウイーンからチェコのプラハまで行けることがわかった。そして、そこから西に視線を移すと、ほぼチェコとポーランドの国境近くにクラクフというターミナル駅があり、その横に「オフィチエンチム(アウシュビッツ-ビルケナウ)」の文字が。

アウシュビッツってここにあるのか…、そう思いながら「できるなら若いうちに訪れるべき場所だ」という、あの先生の言葉が脳裏に蘇った。



プラハからクラクフまでも夜行列車があることを知り、ヨーロッパ滞在残り3日のうちにプラハ、クラクフ(アウシュビッツ)、そしてウィーンに戻ってくるまでの行程をすべて夜行列車で回るという強行軍。クラクフまでのキャビンは二人部屋で相部屋となった青年は「このアジア人、大丈夫か?」というやや疑いの視線(まぁ、現地の人からはそう見られても仕方がない)。

当時、ポーランドはまだシェンゲン協定が施行されていなかったから、まだ5時前くらいの早朝に車内がバタバタと騒がしくなり、入館職員が強引にキャビンの中へ入ってきてパスポートの提示を求められる。そのおかげで大して眠れないまま、朝7時前にはクラクフへ到着した。

イスラエル人の涙に感じたこと

クラクフについて衝撃だったのは駅の構内に物乞いがいたことだ。ずっとここまで西欧から東欧へと周ってきた中で駅で物乞いに遭うのはここが初めてだった。駅の中もどんよりと暗く、西欧とは明らかに街の色が違うと感じた。

クラクフ中央駅からオフィチエンチムまでは、確かローカル線で1時間ほどだったと思う。アウシュビッツ強制収容所に着いて迎えられたのは、有名な「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」のスローガンが掲げられた入場門。たぶん誰が行っても周囲に重苦しい空気が流れているのがわかる。

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強制収容所は第1収容所と第2収容所(ビルケナウ)に分かれていて、前者は資料館になっており、居住区中心の後者の方が面積が広く、収容所での生活がより深く伝わる空間になっている。

場内で見られるのは悍ましい建物や物品の数々だ。大量殺戮の場となったガス室。銃殺刑を行なった死の壁。収容者から集めた髪の毛で編まれた布。書き起こすのも胸が苦しいので、そうしたディテールはここまでにしておく。

途中、歩き疲れて死の壁近くの道の脇に腰掛けていると、目の前をイスラエル国旗を両肩に羽織った女性を囲み、僕と同年代と思しき若い人たちの集団が目の前を通り過ぎていく。

その刹那、何人かの人が啜り泣く音が聞こえた。彼らにとっては同じ民族の命が大量に奪われた負の歴史が残る場所。いや、ここは人類にとって最悪の歴史が残る場所なのだから、僕自身も奪われた命に深く思いを重ねなければならないのかもしれない。ただ、当時の未熟な僕は、そこまでの感情のヒダは持ち得なかった。ただ、彼らの哀しい姿を見た後に地面に着いた自分の手を眺めると、もしかしたらこの地面の上で無惨にも亡くなった方がいるのかもしれないと思い、背筋が凍った。



そして同時に、遠いヨーロッパのことを知るのも大切だけど、彼らのように僕も自分の国が行った戦争の記憶を知ることはもっと大切なことではないかと思った。善悪とか責任という話ではなく、学校教育を経ただけの僕たちは現代の事実についてあまりに知識が乏しいから。

ここだけに限らず、日本の外に出て思い知らされるのは、自分たち自身が日本の歴史や国のあり方についてほとんど知らないということ。アニメとかマンガとか、そういうものの話はいくらでも答えられても、少し難しい話になるとまったく答えられないという無力感に襲われることは何度もあった。

それから第2収容所にも訪れ、収容者たちが運ばれてきた鉄道の線路を見た。ここにも黒一色の服に身を包んだユダヤの正装の方々がいて、硬い面持ちで花と故人たちへのメッセージを捧げていた。

僕が感じたのは、ぽっとやってきた僕なんかが、ここで彼らに思いを重ねること自体が浅はかなんじゃないかという一種のおこがましさ。そして、それまでルーツなんて考えたことがなかった自分が何者なのかという個に対する自覚。

夜行列車続きで丸3日間もお風呂に入れなかったが、頭をガツンと叩かれるように「生きるとは何か」を考えさせられたという点で「できるなら若いうちに訪れるべき場所だ」という、あの先生の言葉は間違いなく正解だった。

そこで感じた「学びたい」という思い。当時は社会に出たばかりのことで忙しさに追われて怠けてしまったけれど、今、少しずつ学びを始めている。

なお、詳細なスペックを確認せずに記憶を引っ張り出して書いた話なので、細かなところは少し違っているかも。今日は久しぶりに旅のお話でした。

【about me…】

鈴木 翔

静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。

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