他人のことを「羨ましい」と思うこと。それって実は…

赤く燃える嫉妬の炎…

「羨ましい」という気持ち

これまで他人のことを羨ましいと思ったことがないわけではない。

なぜあの人は自分より裕福なのか、なぜ自分よりも見た目が優れているのか、なぜ自分よりも能力が高いのか…、広い世界に出て自分と境遇の違う人と出会うほどそういう感情は生まれてくる。



しかしながら、さらに広い世界に出ると、そういう感情を持っていた自分がちっぽけに見えてくる。例えば、かつて僕がインドの最貧困層が住むスラムで見た暮らしは、努力だけで変えられるような環境ではなかった。生まれ育った国の常識が通じる範囲であれば「羨ましい」という感情で収まるけれど、常識が通じない場所であまりに壮絶なものを目にすると、自分の考えが浅ましく思えてくる。富める国と貧しい国、いろんな土地を一人で歩いてみて、そういう気持ちを強く持つようになった。

今の身の回りにも身近な誰かのことを「羨ましい」と言う人がいる。

羨ましいと感じることは何らかに対して「負け」を認めるということだから、素直に誰かを羨ましいと口にできること自体が羨ましいと僕は感じる。一方で、その気持ちを持つことによって誰かに迷惑をかけていないのならば、他人を羨むことは個人の勝手だ。

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ただ僕は、羨ましいものの存在の裏側には羨ましくないものの存在があると思っている。例えば、簡単に言えば「綺麗な彼女がいるあの人が羨ましい」と思う反面で「ああ、まったくモテないあの人に比べれば自分は幸せだ」と思うような存在のことだ。だから、他人を羨ましがってばかりの人というのは無意識のうちに誰かを見下して、周囲を“ランク付け”しているように見える。もちろん誰かに迷惑をかけないならそれも個人の勝手だけれども、そういう目線は常日頃の言動の中にも出てきてしまうものだ。

その嫉妬は何に対してのものか

周りに迷惑をかけないうちはいいけれど、羨ましいという感情は「嫉妬」に変わることもある。まったく美しくないが、これも生きていればたくさんの人が抱くものだろう。でも、妬みから攻撃的な気持ちになる前に、その妬みの対象となるものが生まれ持って与えられたものなのか、それとも本人の努力によって得たものかを見極めた方がいい。



もしも後者であるならば、華やかなところだけを見て妬むというのは他人の積み上げた努力を軽んじていないだろうか。例えば、どんな天才であれ一つの努力もなしに一流大学には入れないだろうし、見た目がいい人も半分くらいは自分のルックスに磨きをかける努力をしているはずだ。その輝きは何もせずに得られたものじゃない。

そして、他人の努力を否定して、自分に与えられた素質だけを見て失望するというのは、自分自身も努力次第で幸せになれるという平等にあるはずの希望を自ら捨ててしまっているような気がする。

悔しいならば、自分も何か努力をしてみてはどうだろうか。何もせずに絶望するより行動を起こして少しでも世の中を見返す方が結果的に楽しいはず。

無論、羨ましいと思う気持ちは簡単に変えられるものではなくDNAに植え込まれた習性みたいなものだから、それをコントロールできるかが大切なんだと思う。

【about me…】

鈴木 翔

静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。

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