自転車ヘルメット努力義務化で感じた雑観と心配
ヘルメット着用は誰のため?
書き取りのような終わりのない宿題をできるだけたくさんやること、人前に立つアルバイトのために清潔感のある身なりを保つこと、アスリートが高い成績を出すために節制に努めること、家で出るゴミをしっかりと分別して出すこと…、これらすべて「努力義務」といわれるものだ。
4月から自転車のヘルメット着用が努力義務化された。警察庁の調べによると、自転車事故で亡くなった人の約6割が頭部に致命傷を負っているといい、ヘルメット未着用の人が事故にあった際の致死率は、着用していた人に比べて約2.1倍高いそうだ。
参照:頭部の保護が重要です ~自転車用ヘルメットと頭部保護帽~(警察庁HPより)
https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/anzen/toubuhogo.html
ただ、健康のために禁煙や禁酒を掲げたり、医者から「甘いものはなるべく控えましょう」なんて言われていても誘惑に負ける人々がほとんどな世の中で、「努力義務」という曖昧な決まりを守る人はどれだけいようか。それを如実に表すように、街にヘルメット姿の数が増えたかといえば、その気配は薄い。むしろヘルメットをかぶって走っていると、まるで前の日の夜に予習をしっかりやってきた優等生にでもなったかのような好奇の目を寄せられている気分になる。同時に、ノーヘルのシェアサイクルや電動キックボードがすぐそばを通ったりすると、真面目にルールを守っている自分が阿呆らしく思えてきたりもする。ヘルメットをかぶるのは、法令遵守のためでも誰かの安心のためでもなく、自分の身を守るためなのに。
僕はそこそこスピードが出せるクロスバイクに乗っている。クロスバイクといっても設計はロードバイクに近い。力を込めれば、時速20キロは優に出るだろう。ただ、よほど急いでいる時以外は、そのスペックを使いこなさずにゆっくり運転だ。例えるなら、電動ママチャリに軽く抜かれるくらい。仕事柄、リュックにPCやカメラが入っていることが常なので、つまらない事故で大事な仕事道具を壊すわけにはいかないのである。その甲斐あって、東京で10年近く自転車に乗り続けていても、事故に遭ったこともなければ大きくズッこけたこともない。
でも、自分はそんなにスピードを出さないからとか、今まで一度も事故に遭っていないほど安全運転だからとか、それだから僕はヘルメットをしません…と堂々と宣言して、周りから認められるものではない。当たり前のことだが、どれだけ自分が安全を心がけていても、事故は向こうからもやってくるのだ。
急に死角から人が飛び出してくることもある。路肩に停まった車のドアがタイミング悪く開いて、外に弾き出されることもある。自転車同士であっても、対向車線を何食わぬ顔で逆走してくる人や、狭い道を背後から強引に抜いてくる人、赤信号の横断歩道を無視して飛び出してくる人もいる。いつどこで事故に遭うかなんて誰にも予想できない。
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ヘルメット着用よりも大切なのは…
そんな中、こんなニュースがちょっとした話題を呼んでいる。
自転車同士衝突し男性死亡 京都、ヘルメット着用せず
https://www.sankei.com/article/20230410-U2Y2DOI5YFKRJIBQRTD2MCPZEI/
事故の顛末を要約すると、サイクリングロードのカーブで2台のスポーツサイクルが正面衝突し、ヘルメット未着用だった高齢男性が亡くなり、ヘルメットをしていた中年女性は軽傷で済んだという話だ。それ以外に事故の詳細は現場が坂道のカーブであったことくらいしか書かれておらず、お互いの速度や衝突の細かな理由は分からない。ヘルメット着用の有無だけが象徴的に報じられている。
どの新聞社も同じような見出しだから、ヘルメット未着用による事故の典型的な例として警察が発表した情報をそのまま報じたものなのだろう。まるで人が亡くなったことよりも、ヘルメットをしていなかったことの方が重大かのような印象を受ける。
人というのは、もとある問題の上に新しい問題が積み重なると、前の問題を忘れたり、小さく感じるようになる性質がある。たとえば、離婚しそうな夫婦が何らかの不幸に見舞われることによって絆を取り戻すとか。あるいは、できない部下に悩んでいた中間管理職がさらに上の上司から業績を詰められたりすると、部下のことなどどうでもよくなるとか。新しい方ばかりを見て、それが解決すると、元の問題は未解決のまま何事もなかったかのように忘れ去られていく。
このニュースを見て、自転車のヘルメット義務化も同じような道を辿らないだろうかと心配してしまった。これまでは危険自転車の運転そのものにヤキモキしていたのに、ヘルメット着用努力義務化という新しい決まりができると、運転ルールの徹底よりも道ゆく自転車がノーヘルであることに世間の不満が募ってくる。今や、ただでさえ自転車に寄せられる世間の反発は強いわけだが、「大きな事故になったのはヘルメットをしなかったお前が悪い」みたいな風潮になるのは、あまりにも悲しい。
今回のケースは、たまたまヘルメット着用側(軽傷)とヘルメット未着用側(死亡)で大きな差が出てしまったわけだが、たとえヘルメットをしていても、思い切り正面衝突をするような事故に遭えば大抵は大怪我を負う。場合によっては、命は落とさないにしても何らかの後遺症や障害が残るかもしれない。そもそも大きな事故が起こらないよう、みんなが交通ルールを徹底することが最も大切なことなのだ。ヘルメットはあくまで事故を大きくさせない補助的な手段のひとつに過ぎない。
無論、前に書いた通り、頭を守ることは重要だ。むしろ努力義務ではなく完全義務化すべきかもしれない。ただ、事故がなくなれば死傷者もいなくなるけど、みんながヘルメットをかぶったからといって事故がなくなるわけではない。このあたり、危険自転車の撲滅とヘルメットの義務化を同一線上の出来事として混同して見ているような向きが世の中にあるような気がしてならない。
また只の杞憂に過ぎないと思うが、何より大事なのはみんなでヘルメットをかぶることではなく、みんなで交通事故をなくすことなのである。
【about me…】
鈴木 翔
静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。