祖父との最期の思い出。そして、その旅立つ背中から教えられたこと


統一地方選で世間が賑やかな最中にこのブログを書き始めている。東京の中心部は23区中21区で区議会選挙が行われているので、どこに行ってもウグイス嬢の甲高い声が響き、主要な駅前には10歩も歩けば誰かしらの街頭演説に突きあたる。この騒がしさが好きなのは、支持している候補者が受かれば何かしら漁夫の利が得られる応援団の人々くらいだろう。


さて今日は、選挙が来るたびに思い出す話をしよう。それは今から15年くらい前に亡くなった母方の祖父の話だ。

もともと持病を抱えていた祖父が、転倒をきっかけに寝たきりになったのは、僕が大学を卒業して間もない頃のことだった。

当時の僕は、大学のある町から一旦地元に戻り、進路にモラトリアムを抱えたままフリーターをしていた。実家ゆえに家賃を払う必要もないので、自分が小遣いに使う分だけを稼げばいいというお気楽な身分であり、空いた時間の多くは母の実家に行き、祖父の近くで過ごした。

今思えば、淋しそうな背中で、ずっと祖父に付き添っている祖母を一人にさせたくないという気持ちが強かったのだろう。でも、祖父の元気な姿がもう一度見たいと思う気持ちの反面で、回復の様子が一向に見られないその姿のそばに居続けるというのは、まるでいつかくるその時を待つ番人になったかのようで、自分のやっていることが偽善にも思えた。

そうした状況の中、その当時に地元の市議会議員をしていた伯父が何度目かの選挙戦を迎えた。母の実家には選挙を手伝うために親族が頻繁に出入りするようになった。祖父から見て母たち子供世代、僕ら孫世代、その他の親族が毎日誰かしらがやってきて、祖父にいろいろ話しかけてから事務所の手伝いに出かけていく。その間、3歳、2歳、1歳という従姉妹の子らの面倒を見るのも僕の役割だった。

上の2人は男の子、下の1人は女の子。男の子2人は兄弟で、2人揃った時の暴れん坊ぶりはまさに怪獣だ。しかし、稚児らのパワーありあまる元気さとは反対に、その頃になると祖父の方は衰弱してきていた。晩年は大分丸くなったとはいえ、言うことを聞かなければすぐにカミナリを落とすような、かつての頑固爺の面影はもうなかった。

厳格な祖父と、菩薩のように優しい祖母。僕の記憶にある限り、ずっと二人はセットだった。夫婦なんだからセットなのは当たり前だろうと思うかもしれないが、二人は本当に「夫唱婦随」という言葉を絵に描いたような夫婦だったのだ。従兄弟の中でも末っ子である僕は、晩年の姿しかほとんど憶えていないのだが、祖父は相当な“昭和のオヤジ”だったと思う。

それでいて昔のアルバムに残っていた写真に残る青年時代の祖父の姿は、端正な顔立ちにツバの大きなハットをかぶったモダンボーイの装い。俳優でもいけたかもしれない風貌は明らかに“オレ様キャラ”であったと想像でき、きっと静岡の田舎では有名なお坊ちゃんだったに違いない。

一方の祖母は本当に地味な人だった。手ぬぐいをかぶり、皺だらけの顔でくしゃっと笑う、平凡な田舎のおばあちゃん。人ずれがなく、ちょっと天然で、一度も怒っている姿を見たことがない。おそらく、その性格は2人の末っ子である僕の母に受け継がれた。…となれば、その母の末っ子である僕にも受け継がれていてもおかしくはないのだが、見た目にしても性格にしても、ああいう優しい人になれていないのが残念でならない。それはともかくとして、そういう人思いの祖母だったから、厳しい性格の祖父と一緒に暮らすには苦労も多かっただろう。いや、そういう祖父とやってきたからこそ、菩薩のように温厚な人になったといわれれば、それもまた頷ける。

たしか僕が小学生の頃に新築した母の実家は、玄関横の四畳間が祖父と祖母の部屋だった。そこでいつも一緒にテレビを見ている姿が、僕の記憶に最も濃く焼きついている二人の風景だ。もともと口数が少ない人だから、離れて暮らす孫と話すのが照れくさかったのだろうか、カーペットにできた毛玉をつまみながらボソボソと喋るのが、祖父の癖だった。

ただ、大学時代に祖母だけに帽子をプレゼントした時だけは違った。自分には何もないことが余程くやしかったのだろうか。押入れをいきなりゴソゴソし始めて、浜松基地を見学した時に買ったというブルーインパルスの刺繍が入ったキャップを取り出してきて、その時だけは饒舌な自慢話を延々と聞かされた。

倒れてからは、その日当たりのいい部屋の中に介護用ベッドが持ち込まれた。そこから先が、おそらく生まれてから最も長い時間を祖父と過ごした期間になった。時折り詰まった息遣いが聞こえ、いつどうなるかわからない不安を抱えながら、物心ついてから周りに大きな不幸がなかった僕にとって、人生で初めて命と向き合う時間にもなった。


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そして、選挙の投票日。

開票を待つために親族が集まる中、僕もバイトを終えて母の実家に到着すると、そこで驚く話を聞かされた。なんと祖父が投票に行ったというのだ。無論、自分で歩いて行くことができる体ではないから、家族に車椅子で押されながら近所の公会堂まで行き、指差しによる代理投票という方法で伯父に一票を投じてきたという。

そこにどれだけの無理があったかは想像しなくても明らかにわかったし、ずっと祖父を介護してきた伯父や伯母にしても、いろいろ葛藤があった末の決断だっただろう。だから、それ以上、詳しいことは聞く気が起こらなかった。

地方の市議会選挙というのは数百、数十の票差で勝敗が分かれる戦いである。それゆえに一票の価値がいかほどに大きいかは僕にも分かっていた。そして寝たきりになった祖父も、一票の権利を持つ立派な有権者であることに変わりはなかった。

自分への一票という、祖父からの言葉にならないメッセージを受け取った伯父は無事当選した。



そして選挙が終わって数日後の夕方過ぎ、僕らは再び母の実家に集まることになった。しかし今度は当選のお祝いのためではなく、祖父とのお別れのために…。

祖父を亡くし、僕は初めて起こる喪失感を経験した。出棺で棺桶を担ぐ役も初めての経験だった。寝ずの番では従兄弟といろいろな話をし、「仕出しの寿司ばかりで飽きたから、マック買ってこいよ」みたいなことを話して笑った。

祖父の最期と伯父の選挙が重なったことも、その選挙で祖父が投票に行ったことも、今でも不思議に思う。その一方で、おそらく祖父は息子の選挙に行くために、もう消えそうな自分の灯火を、あと一日、もう一日と踏ん張って耐え抜いたのだとも思う。そして念願を果たして、「俺はやったぞ」と誇らしく旅立っていったのだろう。

人生というのは歳を取れば取るほど、自分の役割を失っていく歩みだ。その中で、最後の最後に何か役割を果たして人生を終えられる人がどれだけいようか。口数少ない祖父だったゆえ、言葉として心に残るものはほぼないが、その最期の背中は、自分もそういうゴールを迎えられたら幸せだろうなと、僕の人生観に学びを与えた。

いろいろ余計な思い出話まで挟んだら、だいぶ長くなってしまったが、終わりにもうひとつだけ、ここで書きたかった話がある。

選挙戦の最中、先述した3人組の子守をしている時のやりとりが、僕が祖父から聞いた最後の言葉になった。祖父から出てきたのは「〇〇(曽孫の女子)はかわいいなぁ~」という一言だった。後になってみると、じいちゃんと交わした最後の言葉が「曾孫かわいい」というのは、まったくサマにならない話であり、一番下の孫で、かつては祖父母の人気者だったはずの自分が、明らかな世代交代を感じた瞬間だった。

その曽孫女子は後に偶然にも僕の高校の後輩になり、もうすぐ二十歳を迎える。あの頃一歳だった彼女は、祖父の顔など覚えているはずもないが、いつか大人になった時に話してあげようと、ずっと心の中に温めている話である。

【about me…】

鈴木 翔

静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。

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