オリンピック開催で気になる「かんせん」について
文章を書く仕事をしていると、このコロナ禍にあって「うーん、この単語、いま使ってもいいものか」と躊躇する言葉が増えてきた。
そもそも「コロナ禍」という単語はどうなんだろう。ストレートニュースを除いて「禍(わざわい)」という言葉はどうしてもネガティブな印象があるので、文脈に支障が無いような時は「コロナ下」を使うようにしている。
他にも直接コロナに関係がない事柄であってもコロナを連想する言葉は避ける傾向にあると思う。例えば「〇〇に集まる」や「密に〇〇」、「みんなで〇〇」などがそれにあたり、細かな言い回しでも読む人の印象を考えて微妙に文章を変えることがある。
そこで夏に行われる予定の東京オリンピック・パラリンピックである。去年から延期の末、開幕まで100日を切っても「予定」と付けざるを得ない東京五輪だが、いろいろ筋の悪い件も起きているので開催の賛否についてここで個人的な意見は言わない。ただ単純に言葉を扱うことが生業の人間として、テレビなどで最も使われる言葉のひとつであろう「観戦(かんせん)」という言葉は、果たしてどうなるだろうか。
言うまでもなく「観戦」は「感染」と同音異義語だ。
「テレビの前で観戦しよう」
「会場の観戦者数は…」
「安全な観戦を…」
きっと、こんな文言がいろんなところに並ぶだろう。
僕は大して気にしないけれど、ただでさえ開催反対の人も多いオリンピックだけに、きっと「かんせん」の4文字すら聞きたくないといった声も上がることだろう。
このあたり「観覧しよう」とか、単純に「見よう」という言葉に置き換わるのか、それともどこかの知事がまた「ステイホーム」的なコピーを作って広めたりするのか(〇〇ウォッチ…みたいな)。
何にしても、原稿の表現にまでコロナ禍への配慮を考えなければならないというのは息苦しい世の中である。