「感動」以外も伝えてほしい東京五輪 (男子4×100mリレーの感想)

全日程を終えようとしている東京五輪。たくさんのアスリートの活躍に感動の連続だった。そして最終日も女子バスケットボールの決勝戦や陸上の男子マラソンなど、最後の最後まで見逃せない競技が続く。

そんな中で僕も非常に期待していた男子4×100mの決勝で日本チームがバトンパスのミスによる途中棄権となった。陸上のスプリント競技でメダル獲得の可能性が高かった唯一の競技だけに、観ていた側としても落胆している。

決勝まで進出した選手たちの健闘は讃えたい。選手本人たちの方が僕なんかの何万倍も悔しいはずだ。ただ、最後までやり切ったわけではなく途中棄権という結果だったのに、テレビから流れてくる“健闘ムード”にどこか違和感を感じた。想像していなかった結果におそらく言葉が出なかったのだろうけど、画面に出ている人たちの口から揃って出てくるのは「攻めて行った結果だから…」みたいな「仕方ない」という言葉ばかりだ。



確かに日本のアンダーパスの技術は高いと思う。その効果によって過去大会でメダルを獲得してきたと言っていいだろう。ただ、選手が変われば技術の習得もゼロからスタートだ。技術等は常に一定というわけではない。比較的若い選手が多かった今回のリレーチーム。果たして、9秒台の記録を持つ選手を揃えて「史上最強メンバー」なんて言われてきた中でチームの結束をしっかり図ってきたのか、「日本のバトンパスの技術は高い」と言われる中でさらなる高みを目指してきたか。そして、たとえ成功すれば会心の一撃が出せるような技でも、大一番でミスが起こるような「諸刃の剣」を使うことが今回のチームに合っていたのか。もちろん選手個人への批判を言っているわけではない。ただ、これはやり切った上での負けではなく、失敗による負けだ。未来に向けて陸上競技への世間の目を肥えさせるためにも、もっとちゃんと確かな視点からの評価を伝えていかないと、この先の成熟は薄いと感じた。

僕は昔から「友だちごっこ」の集団が好きではない。「友だちごっこ」とは、悪いことに気づいても、それを黙ったまま群れていることに幸せを感じているような人々のことだ。とにかく「出る杭」にはなりたくないという人たちの集まりともいえる。そういう集団は生産性を上げることよりも仲間内で嫌われたくないという気持ちの方が勝るので、一緒に会議なんかをしていても不毛な時間ばかりが積もる。ミスをミスだとはっきり言わないで、誰もが「頑張った」「仕方ない」という論調に偏っていた今回のリレーの中継には、それに似たようなところを感じてしまう。

かつて日本が初めてサッカーW杯に出場した1998年のフランス大会の時。予選リーグで1勝もできずに終戦を迎えた後、NHKの中継でスタジオゲストに来ていたラモス瑠偉がものすごい剣幕で日本チームにキレまくっていたのをよく覚えている。常勝国ブラジルに生まれ、日本でドーハの悲劇を経験し、W杯に出る重みを知っているラモスさんだからこそ、いろいろと押し寄せるものがあったのだろう。まだ高校生だったあの時はだいぶドン引きしたけど、今思えば、あの“ラモスの喝”があったからこそ、見る側にも「出られて良かった」ではなく「勝たなきゃダメなんだ」という厳しい目を持つ空気が生まれたんだと思う。



今のようにテレビが“軟弱”になっているのは、今の世間の風潮が作り出している空気によるところが大きいと思う。かつてこれほどまで多様性の尊重に神経質な五輪はなかった。さまざまな差別意識やSNSなどで展開される誹謗中傷の根絶にかつてないほど強く光が当てられた五輪でもある。そんな中でちょっと道を踏み外したことを言ったら、一部の発言を切り取られて世間から叩かれまくった末に“常識外の価値観を持った人間”という烙印を押されてしまう。だから必然的に世間におもねったことしか言えなくなり、皆が皆、「仲良しグループ」のように空気を踏み外さないコメントしかできないのだろう。

スポーツを通じて「感動」を伝えるのはいいことだ。選手の頑張りを見て、自分もがんばろうと思えるし、そのスポーツを始めてみたいと思う子どもたちも生まれるだろう。ただ、感動だけでなく「競技のリアル」も合わせて伝えていかなければ、スポーツの未来には繋がらない。テレビで見るしかない五輪。画面の中から伝えられる感動の連続を見ながら、ふとそんなことを思ってしまったのである。おわり

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