強烈な印象が残っている担任教師「アウトロー先生」について

子どもの頃から大人からはっきり選別されるタイプだった。いわゆるハマる人にはガチッとハマるけど、ハマらない人にはまったくハマらない。最たる例は学校の先生だ。

担任の先生も学年ごとに残っている思い出が極端に違う。かたや良い先生だった記憶しかなければ、かたや嫌な先生だった記憶しかない。ただ、影があるからこそ光が輝くわけで、平坦な道ではなかったからこそ“ハマった先生”と出会った時の思い出は強く残っている。

教師に言われたいいことなんて大して記憶に残らないが、嫌なことは一生残るというのが僕の持論だ。ただ、言葉の強さという面において、どうしても忘れられない担任教師が一人だけいる。

それは中学2年の時の担任だった先生のことだ。歳は30歳前後で専門は音楽。当時、僕が育ったような田舎で男の音楽教師は珍しかったと思う。



珍しかったのは専門教科だけではない。その風貌も他の教師たちの中で異彩を放っていた分厚いタラコ唇に太い眉毛、そして肩まであろうかという長い髪。着ているものこそチェックが入ったようなお行儀のいいジャケットスタイルだったが、それを除くと完全にアウトローのクセつよキャラである。背がそこそこ高く、ガッチリとした体型をしていてシルエットだけは当時トレンディドラマでブレイクしていた豊川悦司に似ていなくもなかったが。

さらに彼には都市伝説的な噂もあって、音楽教師なら子供の頃からピアノを習っているのが当たり前と思いきや音楽を始めたのは高校1年の頃のこと。しかも最初に始めた楽器はギター。そこから音大に入るためにピアノを猛勉強し、努力の末に合格。ギターの腕前はプロ並み…というか本当にプロを目指していたらしく、大学を卒業後は「ラ・ラ・ランド」のセブみたいに地下にあるようなクラブでピアノを弾いていた…みたいな噂がいくつもあった。

ただ、担任だった1年間も自分のことを語っているところを見たことがない。どこか影があって、ナイーブで、他の先生と馴れ合っている姿を見たことがなく、とにかくミステリアスな存在だった。

彼の授業はとにかく熱い。例えば、シューベルトの『魔王』を歌詞付きで聴く時はCDに吹き込まれたものを聴かせるのではなく、音大の合唱部で鍛えたという自慢のバリトンボイスで自ら唄う。「マイファーター、マイファーター♪」とドイツ語で一曲唄った後で「はい、では次は日本語版を聴いてもらいます」ともう一回通しで唄う。普段は静かな先生が、いきなり額に青筋が出そうなくらいの大音量で唄い出すので、いくらそれがどれだけ上手でも中学生の我々にとっては笑いのネタでしかない。ドイツ語でも笑いを堪えていたのに、「おとーさん、おとうさん♪」って日本語でも唄うのかいっ!と吹き出すのを必死で抑えたのを覚えている。ただ、それくらいクソ真面目で音楽に熱い先生だった。

生徒の間に流れる都市伝説の中で、ひとつだけ確かなものがあった。それはギターの巧さだ。たまに課題になっている曲をアルペジオで弾き語ってくれる姿。普段は摑みどころのない人だけど、ギターを弾いている瞬間だけはキラキラとしたオーラが溢れて、まさに「男が憧れる男」だった。

その姿に魅了されたのは、僕だけでも僕らのクラスだけでもない。先生の演奏を見た男子はみんなギターに憧れ、徐々に誰もいなかった昼休みの音楽がギターを覚える男子で埋まった。給食が終わるとすぐに音楽室に行って、本数が限られているギターの取り合いが起こるほどだった。先生のギターが学校全体を変えた。かくいう僕もそのギター少年の一人で、Fコードに苦戦する下手っぴなのに、この年の正月にはお年玉でマイエレキを買った(今も実家のどこかに眠っているはずだ)。

ただ、学校というのは狭い社会みたいなもので、時として治安の悪化とか疫病の蔓延のようなことが起こったりする。

ちょうどその年、兵庫で神戸連続児童殺傷事件が起きた。いわゆる「酒鬼薔薇聖斗事件」だ。ちょうど犯人の少年と同じ歳の僕らは「キレる10代」なんて呼ばれた。実際に僕らの学校も荒れていた。一部の不良グループが教師いじめのようなことを行い、授業の妨害や喫煙等々の事件を度々起こした。僕らの仲間は何の罪も起こさなかったが、風紀が乱れるにつれ学年全体の成績も下がり、そのあおりを受けて本来恒例で行われるはずのあらゆる行事が自粛のような形で消えていった。

そんな折、昼休みの楽しみだった音楽室でも事件が起こる。不良の一人が音楽室のギターを破壊してしまったのである。当然だが、音楽室の備品は昼休みの遊びのためのものではなく、授業を行うためにあるものだ。これによって昼休みの音楽室は使用禁止となった。きっとその顛末を誰よりも悲しいと思ったのは先生だっただろう。

先生は生徒の評価の仕方も型破りな人で、簡単に言えば「能力」ではなく「努力」を見て成績を付けた。いつの時代も音楽というのは、だいたい子どもの頃からピアノを習っているような子が上位の成績をもらうものと決まっている。どれだけがんばってもその壁は越えられないと、“素人”は初めから諦めている。ただ、唄うことが好きだった僕は校内の合唱コンクールの練習をがんばった。他のクラスには絶対に負けたくないとクラスをリードした。そして合唱コンクールが終わった後は、覚えたてのギターをとにかくがんばった。

そしたら学期末にくれた成績は10段階の10。もちろん他のどの教科よりも高い成績だった。でも、必死に取り組んだことは自分でも認めるけど、鍵盤楽器が一曲も弾けなくてこの教科で万年赤点をもらっていた自分がこんなに良い成績をもらっていいものか。子どもの頃からピアノを習っている子たちは、そこにお金と時間を費やしているわけだから彼らが何もしなくても成績の高いことに異論はなく、先生の評価の仕方が正しかったかは今でも分からない。でも、僕はそこで「努力は報われる」ということを教えられた気がする。

先生から個人的に直接言われた言葉は数少ないが、たしか授業の発表のためにギターの居残り練習をしていた時のことだったか。二人きりの音楽室でこんなことを言われた。

君は絶対に自分の好きなことをやらなきゃダメだ…と。

特に人生相談をしたわけでもない。何か悩みに突き当たったわけでもない。だから、あの時、K先生がどうしてあんなことを言ったのか分からない。ただ、先生の眼差しは真剣だったし、何よりその生き様の裏側に苦労が透けて見える大人の言葉は、少年だった僕の心に深く刻み込まれる威力があった。

そして、そのまま卒業まで先生と過ごすと思っていたが、3年に上がるタイミングで先生は担任から離れた。さらに別れは突然やってきて、中3の秋にある病院で急遽入院してしまい、最後の挨拶もなく学校を離れた。連絡先もわからず、その後の経過も知らされないまま僕らは卒業を迎えた。結局、先生は卒業式にも来てくれなかったが、大人になった今だからよくわかる。あの先生は学校という狭い檻の中で生きられるような人ではなかったと。

最後に、なぜ急にこの話を書きたくなったのかについて。そこには理由がある。

最近、ふと先生のことを思い出してネットで名前を検索してみたら、地元のあるキリスト教の教会のYouTube動画が出てきた。そして、そこにはオルガンで聖火を演奏する先生の姿があったのだ。僕の中にあったのは懐かしい気持ちよりも安堵の気持ちだった。もしかしたら僕らの学校での荒れた行動が先生を傷つけてしまったのかもしれない、病気ではなくと、心の中にずっと支えていたものがあったからだ。今でも音楽を続けているということが何よりも嬉しかった。「君は絶対に自分の好きなことをやらなきゃダメだ」と教えてくれた人が、好きなことを諦めた姿を見るのはとても悲しいことなので。

今では当時の先生よりも歳上になったけど、先生の教えはしっかり守れている気がする。いつか先生に会いに行きたいが、またそれは別のお話で。

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