独り身おじさんは、見知らぬ他人の優しさが若い頃より身に沁みる
二十代半ばで一番上の姪っ子が生まれてから、僕は自分のことを「おじさん」と認めている。それは彼女のおじさんであることが嬉しいからである。だから自分で自分をおじさんと言うことは確かにあるのだが、他人からおじさんと言われるのは、ちょっと腹が立つ。つまりは面倒くさい人間ということである。
さて、おじさんというのは、なかなか生きづらい生き物だ。さらに僕のように、いい歳して一人ものだと余計に生きづらい。
親子連れなんかとすれ違う時にやけに訝しげな目で見られるし、スマホ歩きの人と道でぶつかっても、相手がおじさんだと分かると謝りもしない。自分から心を開いていかないと仲間に入れてもらえないし、簡単に弱音をはける場所もない。おじさんがやったらアウトな見た目いじりなんかも、相手がおじさんならOK。
…とややオーバーな例えだが、どうやら成人男性=社会的強者という一定のレッテルが、そういうムードを醸成しているように思える。世の中で問題を起こすおじさんの割合が大きいから、それも致し方ないのかもしれないが。
無論、おじさんでなくても、生きづらい思いをしている人はたくさんいるだろうし、おじさんだけがつらいのではなく、おじさんだってつらいらい思いをしているということを伝えたいのである。
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しかし、暗い闇があるからこそ、明るいものが光って見えるのだ。
先日、新宿で用事を終えた後、家に帰る途中の代々木で自転車の後輪がパンクしてしまった。タイヤもチューブも変えたばかりで、安心していて修理セットは持っていない。時間は深夜。近くの用具店は閉まっている。とりあえず、その日は近くの駐輪場に自分の自転車を預けて、シェアサイクルで帰ることにした。
そして翌日、修理キットを持って再び代々木へ。後輪はずしてタイヤからチューブを取り出し、穴を見つけてパッチを貼る。
でも、穴が予想以上に大きいようで空気漏れが止まらない。これだとチューブ自体を交換しなければならない。替えのチューブを持っていないので、つまり、また出直し…。
ちゃっちゃと直して帰るつもりだったのに、またここまで来るの面倒くさいなぁ…と気を落としながら、さっき料金を払ったばかりの駐輪場に再び自転車を止めていると、たまたま隣のロードバイクを取りに来た青年がこちらの自転車をじっと見ている。そして、
あ、パンクですか?
と聞いてくる、その青年。そして自分のカバンわゴソゴソしながら応急セットを取り出して、
道具ならありますけど?
と言う。なんて良い青年だ。ただ、チューブ自体がダメになっているので、そのことを伝えると、今度は、
チューブですか。23C(チューブの太さ)ならありますけど使えます?
なんと、たまたまここで会っただけの見ず知らずの人にチューブの心配までしてくれるなんて。23Cだと細すぎて僕のクロスバイクには合わないけど、その気持ちだけで何だかすごく救われたよ。
そして、そこで感じたのは、こういう歳になると、若い頃に比べて他人の優しさが余計に身に沁みるということ。年齢もあるけれど、コロナ禍でいろんな関係が途切れたからこそ、困った時にかけてもらえる声が余計にあたたかい。
その後、青年はヘルメットをかぶって愛車で颯爽と去っていった。世の中捨てたもんじゃないと感じさせられた一件だった。
ただひとつ心残りは、一期一会とはいえ、連絡先くらいは交換しておくべきだったということである。
【about me…】
鈴木 翔
静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。