母からの誕生日祝いのメッセージを見て考えさせられたこと

またひとつ、歳をとりました。

昨日は自分の誕生日だった。

そうとはいえ、一人で暮らしていると特にイベントもないわけだが、幼馴染の親友と母親と姪っ子とガンプラ先輩がお祝いのメッセージをくれた。この歳になれば「鈴木翔生誕祭」みたいな大それたお祝いでなくても、それだけで十分幸せなのである。



その中で母親のメッセージはこういうものだった。

「今日は誕生日です、おめでとう」

これを見て心の中で瞬間的にツッコミが出た。母よ、そこは日本語的に、

「今日は誕生日ですね。おめでとう」

じゃないかと。

「今日は誕生日です」では、まるで自分のことのようだ。相手に確認を投げかけるような「ね」を付けないと不自然じゃないか。

しばらくそう思っていたのだが、そのわずか十数文字を頭の中で何度か繰り返すうちに、自分の浅はかさに気付かされたのである。

確かに僕にとって6月10日は「自分が誕生した日」であるのだが、一方で6月10日は、僕の母が「僕を誕生させた日」である。どちらも略せば「誕生日」だ。

「誕生日」という単語を辞書で引いてみると、

【その人の生まれた日。誕生の当日。また、誕生の日付と同じ日付の日】

とあるが、この単純な言葉の定義が「生まれた日」であると、一体誰が決めたのだろうか。

人であれ、動物であれ、産まれた側の命があれば産んだ側の命もある。そうであれば「産んだ側」の記念日を指す言葉があっていいと思うのだが、「誕生日」の反対語を検索してみると、当然ながら「命日」となる。まぁ、「出産日」という言葉はあるのだが、それが誕生日のようにアニバーサリーとして使われる言葉かといえばそうではない。

よって「誕生日」という言葉は、誕生した側と誕生させた側、両方の記念日を含んでいなければならないのでは…というか、そうじゃないと優しくないと思うのである。



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人間誰しも自分が生まれ落ちてきた瞬間のことなんて覚えていない。もし覚えているとしたら、生まれてすぐに立ち上がって「天上天下唯我独尊」と言ったというお釈迦さまのような聖人であるに違いない。

それに比べて産んだ側にとっては、ひーひーふー、ひーひーふーと相当な苦労を味わった日である。その痛みは生物学上、僕が一生かかって求めたとしても経験できることのない痛みである。そう考えると、やったー、今日はオイラの誕生日だぁ…みたいに無邪気に喜ぶ前に感じることがあるべきと思うのだ。

「今日は誕生日ですね。おめでとう」

なかなか味わい深い言葉だ。

まぁ、若干天然混じりな母のことだから、そんな狙いは1ミリもなく、ただの打ち間違いのような気がする。でも、この日を記念してこう言いたい。

今日は僕の誕生日です。

産み出して、おめでとう。

そして、ありがとう。

【about me…】

鈴木 翔

静岡県生まれ。東京都中央区在住。出版社や編プロに務めた後に独立。旅好きでこれまでに取材含めて40カ国以上に渡航歴あり。国際問題からサブカルまで幅広く守備範囲にしています。現在は雑誌、実用書などの紙媒体での編集・執筆だけでなく、WEBライターとしても様々な媒体に関わっています。ジャンルは、旅、交通、おでかけ、エンタメ、芸術、ビジネス、経済などノンジャンルでありオールジャンル。これまでの経験から「わかりにくいものでもわかりやすく」伝えることがモットーです。



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