しばらく喪に服していました。


あんまり人に話すような内容ではないけれど、それだけにこんなところじゃないと書けない話を。

実は先週、ごくごく関係の近い親族が亡くなった。

…いや、実際には亡くなったと電話で兄から聞いただけで、葬儀で亡き姿を見たわけじゃないので、もうすぐ1週間が経つ今でも実感は沸いてこない。

東京から外への移動が制限された頃から、こういうことがあっても郷土には帰れない覚悟はしていた。そして、そういう覚悟をしていたからこそ、この状況が治まるまでは何もあってくれるなと強く願ってきた。

しかし、いろんなことがストップした今日の状況でも時間は着実に流れていて、その中では大事な人との別れの時もやってくる。

電話をもらった時、昔から感情をほとんど表に出さない兄の声は少し震えていた。でも、僕は不謹慎ながらこういうこともあり得るだろうという予測が先にあったので、正直どんな言葉を言えばいいか解らなかった。そこで思い切り感情を露わにしたとしても、今の僕にはサヨナラを言うことも、親族の悲しみに寄り添うことも叶わない。だから、自分にとても近いことでありながら、すごく遠くにあるようなことにも感じられて、ただただ何もできない無力感を感じていた。

結局は年に一、二度しか話すことのない兄とまったく別の話ばかりして、僕の方はほとんど感情が揺らぐことがないまま電話を切った。それからしばらくして、涙の一つも流せなかった自分はこんなに冷たい人間だっただろうかと、罪悪感のようなものが襲ってきた。

近親者が亡くなるのはこれが初めてのことではない。近しい人にもう会えないことほど心身に堪えるものはないというのは身を持って知っている。でも、今回だけはこれまでと違う不思議な感覚に落ちている。運動不足の体が心に追いつかないようなもので、心が心に追いつかない。本当に悲しいんだけど、その気持ちが感情に繋がってこない。

心の運動不足。どうやら喜怒哀楽の中の前後の2つが消えたような暮らしが続いているから、感情のヒダが渇いている。故人を囲む空間で誰かと感情を共有できたなら、心のうちにあるものが引き出されるような気もするけれど、今の状況ではそれもできない。そんなことは電話やzoomなんかで話すことでもない。悲しい気持ちを持てば持つほど一人ぼっちで陰な気分に嵌ってしまうだけだから、きっと今の僕は感情を捨てることでそれを避けようとしている。

とりあえず親族には手紙を送り、「この状況が収まったら、墓前に手を合わせに伺います」と書いた。きっと平常が戻れば、普通の情緒も戻ってくるはず。そして、その時にいろんな思いがじわっと溢れ出してくるのだろう。

それまでは少し感情が抜け落ちてしまった今の自分を肯定してあげたい。

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